「考えること」は必ずしも生産性のある行為ではない、という学び
アランの『幸福論』にこんな一節がある。
「思考というものは、必ずしも健全とはいえない一種の遊戯である。」
つまり、考え込んで行動しないでいると、不安感や焦りが生まれる。
そして、こうも言っている。
「金持ちたちの生活を満たしている種々の用事・・彼らは無数の義務や仕事を自分でつくり出しては火事場にでもいくように駆け回る。・・・彼らは世間の中で暮らしたいのであって、自分の中で暮らしたいのではない。・・・生というものはこれを満たせば満たすほど失う心配がなくなる。」
暇であればあるほど、人は自分の思考の中で生きようとし、世界を見る視野が狭くなる。
一方、やるべきことを自ら創造して(押し付けられるのではなく)忙しくしているということは、不要な思考を排除し自らの人生を豊かにするということを言いたいのではないだろうか。
私は今まで「考えること」=「良いこと」と思っていたが、これはある意味正しく、ある意味間違っていることに気付かされた。
行動を前提とした想像的な思考と、行動した結果を分析的に思考することは、生産性のある思考であるが、行動をしないがためにただ自分の中で答えのでない思考を繰り返すのは無意味であると学んだのである。
そして、忙しさにも種類がある。
他人から押し付けられた仕事に追われる忙しさは質の悪いものであるが、自らが不要な思考をしないために予定をたくさん詰め込んで行動的な日常を送っている場合の忙しさは質のいい忙しさであるということである。
アランの『幸福論』は簡単な文章ではないので少し読みにくいと感じていたのだが、じっくり読んでみるとその時々で新たな解釈ができ楽しい。