れんこんのあなのなか

1998年生まれの男の頭のなか

アナログの優位性 その2

先に述べておくが、決してアナログがいい、アナログ推進派!ということではない。

アナログもデジタルも一長一短あるのは分かりきっている。

私が求めているのは、

 

なぜこのデジタル社会においてアナログが残るのか?についての腑に落ちた説明が欲しいという単なる個人的感情に基づく考察

 

である。

 

 

さあ、管理方法について比較したとき、

私はやはりアナログな管理の優位性があると思う。

デジタル管理の利点として、スマホ一つに膨大なデータが保管可能という点、アプリなどを使ってかなりわかりやすく整理することも可能というところは十分承知しているが、である。

 

アナログな管理の代表例その1

本について

 

今や電子書籍でいくらでも読める時代

また、スキャナーに読ませることで膨大な本を薄っぺらなタブレット一冊にまとめて持ち歩くことも可能な時代、、

ただこれが本当に便利なのか?という疑問がある。

なぜなら、そもそも"全部"を持ち歩く必要性はない、と思うからである。

 

私は、読む方法として紙ベースかデータベースかというのは問わない。

ただ、電子書籍の個人的苦手なポイントとしては、取り出すのにアナログより手間がかかるという点だ。

 

本であれば、整理された本棚から探しさえすればいい。そこにあるからだ。

 

データの場合、ファイルをわけてせいりするのはいいが、整理すればするほど奥深くに埋まりやすいというパラドックスが発生する。

もちろん、音声検索のように、一発で探し求めたものを取り出すのも可能だが、現物がそこにないのが好かない。単純な理由だが。

 

 

 

例二つ目、勉強する際の手法について

 

ノートをとる際、今の時代板書を写真に収めることで吸収した気になるお馬鹿さんがたくさんいるのだが、写真を撮って、それが記憶される先はキミの脳ではなく、スマホの写真フォルダだぞと強く言いたいのだ。

スマホは私たちの脳ではない。

 

スマホは私たちの脳ではない、のだ。

 

 

いつも肌身離さず持ち歩くスマホはまるで私たちの体の一部のように錯覚するのは仕方ない。しかし、決してそうではない!のである。

 

一方、ノートにペンで書くという行為は脳に記憶を定着させる行為そのものである。

ノート自体は私たちの脳ではないのだが、

ノートは私たちの脳のプラットフォームとでもいうべきか、、ノートは私の脳をありのまま表現したものなのだ!

 

じゃあスマホにメモするのも同じ効果があるんじゃないか?という質問に対してはこう答えよう、

 

スマホのメモ機能は大変便利だが、どう考えても制限が多過ぎて、脳のプラットフォームと呼べるまでには至ってない。

 

なぜなら、自由度が少ないから。

文章を打つスピードも手書きのほうが早い。

単に人の話をそのまま書き写すだけならタイピングの方が早いのだが、ノートを書く理由は議事録とはちがうのだ。

 

何を見聞きし、お前の脳は何を感じたのか?

それを言葉として表現、、もう少し私の感覚的な言葉でいうならば、言葉として吐き出す場が、ノートないし紙の上なのである。

 

デジタルでそれと同じ効果は得にくい。

iPadの手書きについても、私が書こうとしている文字とそこに映し出される文字はどう考えてもズレがある。

私の字ではないのだ。あくまで、ペンの軌道をデータ化して表現してるというわけで、ずれが生じるのは当然なのだ。

 

かつ、管理する場合の自由度も低い。

ファイル化できるのは大変便利に見えて、探す手間がかかる。

スマホという電子機器はあくまで他人が作成した機械だという認識を忘れないで欲しい。

 

作った人が一番使いやすいはずなのだ。

スマホを作ったわけでもない私たちが、100パーセントスマホを自分の道具として使いこなすのには限界があるのだ。

 

その一方、ノートや紙の場合、自分のオリジナルの管理ができる。

私なりのオリジナルの管理、この紙はここに置く、この科目はどんな素材のファイルを使って、どのサイズのファイルで、、など全て選択できる自由がある。

 

だから私はこの時代においてもなお、アナログはデジタルに全く劣らないと言い切れるのである!

 

かつ、デジタルがどれだけ進化しても、デジタルとアナログとは全く性質が異なるものである以上、アナログが絶えることはないと言い切ってもいい。

 

アナログの上にデジタルがあるのではなく、

アナログとデジタルは、日常におけるその比率は変わりつつも、必ず共存するものであると思う。

 

そもそもアナログとデジタルという二項対立で議論してる私であるが、アナログ的思考をすれば、アナログとデジタルという二つの言葉の間にあるまだ言葉で表せてない何かが存在していてもおかしくはないのだ。

デジタル上でアナログを表現するみたいな感覚なのかな?

(↑やはり脳で考えてることを言葉にするとどうしても陳腐なものになるなあ。この点は、アナログもデジタルも脳に近づきつつもまだ離れてるよな)

 

 

まあ、とはいえ

まだ未来はもっと良くなるはずである。

 

 

2021年にはこんなことをおもったよ、

ってなわけでおしまい。

アナログの優位性(その1)

なぜこの時代に、あえて紙とペンで文字を書くのか?についての腑に落ちる説明が欲しくて、紙とペンを用いて考えてみた。

 

この文章は、一度紙に書いた私の思考を文章に再構成しなおしたものである。

 

まず第一に、アナログというのは連続的に変化する量で表すもので、デジタルというのは、変化を段階的に区切って表すもの、と簡単に定義しておこう。

 

時計がいい例。

また、絵を描くことについて考えると、

紙とペンで描く場合、色の"間"というものがある。すなわち、デジタル上では決して表せないなんとも表し難い色というものもアナログなら表現できる。

 

本題に戻ると、なぜ私はこの時代に紙とペンで文字を書くか?であるが、

 

そもそも、思考というのはアナログなものであることが大事なポイントであろう。

つまり、思考というのは区切りなく連続していて、ときに広がり、ときに間違いを犯し、ときに横道に逸れて枝分かれするものであるのだ。

 

その一方でデジタル表現というのは、絶対的なもので、全て再現性を持つ。

アナログ表現は再現性を持たない。

 

再現性を持つ利点としては、誰がどう見ても全く同じ実体であるということで、事実を伝えるだけならそれでいい。むしろその方が早く的確に伝わる。

 

ただ、デジタルの、ただ事実を連なるという部分は、思考を言語化するときには少々厄介な特徴にもなる。

なぜなら、思考というのは方向を持たないからである。文章のように右から左、このブログであれば上から下へと一定の方向を持つ文章とは異なるのだ。

 

しかし、アナログな手法を用いるとこの方向性に関する問題は解決する。

 

真っ白な紙の上にペンでひたすら思考を吐き出すという方法、あるいはマインドマップもそれに近い表現である。

これをすることによって、思考がなるべくその形を変えない状態で紙の上に現れる。

 

それこそアナログの優位性であると考える。

 

そのアナログ表現を、一般的には創造性とも呼ぶのだが、この創造性を生み出すにはどうしてもデジタルだと制限が多い、というのば事実である。

 

結論、

「アナログは、思考という方向性を持たない概念をありのまま言語化する際に役に立つ、制限の少ない表現方法であるから。」とまとめられようか。

 

さあ、

つづいての記事では、アナログで作った文章(手書きの文章)=紙と、ブログ記事やスマホのメモ帳、LINEの文章などと言ったデジタル上の文章=データについて、

その管理方法に視点を当てて話を進めることとする。

 

 

 

 

言葉をもって映像化する技術

私の尊敬する、20代でありながら第一線で活躍し、いまだにさまざまなことを探究し続けている、私の指導者たる上司

 

(上司、という名詞の説明がとても長くまわりくどいのはご勘弁を。)

 

が、人の説明を聞くときの姿勢について説いた。

 

子(上司)曰く、

言葉をそのまま映像化せよ、

映像としてイメージできたらあとはその映像を自分の言葉で説明すればいい。

そうすれば記憶に残りやすく、自分が人から聞いた説明を第三者に伝えるときに伝えやすい。

 

そんなことを言っていた。

 

たしかにその通りである。

 

人の話を聞くときの姿勢に役に立ちそうだ。

 

また一方で、映像描写が上手い人になりたいなとも思うのである。

つまり、先程の話は受け手側に立ったときの心持ちの話だが、そうではなく、発信者側に立つとき、映像化できるできないで伝わりやすさが変わるという話である。

 

例えば歴史を説明するとき、史実を淡々と、教科書的な説明をしていては相手の記憶に残りにくいが、まるでそこにいたかのごとく、状況を事細かに説明すると相手の脳内で映像が再生される。

 

相手の記憶に残りやすい説明ができるというのは大変高度な技術なのかもしれない。

 

ただ、この技術を持った人が日本には一定数いる。

 

落語家である。

 

 

彼らの話は、目を瞑って聞いていると本当に目の前で映像が再生されるほど映像描写力がある。

 

 

映像をどうやって説明したら相手の脳内に映像化されるか?という研究が必要だ。

 

落語はただ面白い娯楽というだけでなく、人に物事を説明する力についての優れた資料であることを私に感じさせるのである。

 

“お茶には利尿作用がある”ことについて

先程久しぶりにお茶、つまり日本茶を2杯飲んだ。

私は濃いめの渋めが好きである。

今回の2杯も、"エスプレッソ"並であった。

 

 

最近は朝ご飯の後にコーヒー、昼の休憩には紅茶と、カフェイン入りの飲み物といえばこの二択だったが、久しぶりの緑茶は気持ちをホッとさせるものだ。

 

このホッとさせるというのをざっくり科学的に説明すると、

お茶に含まれるテアニンという成分が脳まで回り、それにより脳からアルファ波という人間の精神を落ち着かせる電気信号を出すことによる精神的作用

 

とでも言えるか。

 

さて、今日のお茶を飲んだ作用はもう一つある。

利尿作用だ。

 

この2時間の間にもう3回もおしっこに行ってしまった。てしまった、というより無駄な水分が排出されてると考えればいいのだが。

その分、また水分を摂らないといけないとも言えるが。

(※本題から逸れているのは承知だが、水分摂取と体液循環は同時に考えないといけない。運動などで体を動かしたり、身体的な活動によって代謝を上げる必要はある。)

 

お茶を飲むと頻尿になるというのはよく聞くが、これはお茶だからではなくカフェインの利尿作用がもたらした結果である。

 

だが、今回の実感としては、普段コーヒーや紅茶を飲むときはそれほど頻尿にはならない気がするが、今回は久しぶりの緑茶が効いたのか??とふと思った。

 

しかし、単なる一例をもって一般論を導くのは科学的ではない。

 

帰納法を用いるにはデータが不十分である…。

 

 

お茶をしながらそんなことを考えた。

 

お茶をする、というふうにお茶が動詞になっているのも日本語の面白い表現である。

お茶をすると言っているのにコーヒーが出てくることが多い気もするが。

 

今回はこの辺でおしまいにしないと終わりがない。

 

ザッツオール

歩いて職場に向かう途中に思ったこと

もっと真剣になれ、
もっと、人生の主人公たれ。

顔つき、姿勢、歩く姿、時間の使い方、人との関わり方、、もっと真正面から向き合い、もっともっと本気で生きてみろ、

まだ足りない、まだできる!

 

 

 

つまり、もっとスキマにやれることはあるってことよ。

人生の時間をいかにして使うかは、全権私に委ねられている。

多分だけど、いまのままフツーに時間を過ごしていたら25歳になったくらいで周りに置いてかれてると思う。

 

人とは比べるものじゃないと言いつつも、

上を見てもっと貪欲に行動しよって思えるのならそれはよしである。

 

25歳になったとき、

周りと圧倒的な差をつけて今以上に堂々と生きるために、いまやるべきことは山ほどある。

 

やらなくても生きてはいけるが、劣等感も多分ついてくる。

だから、今ちょっと楽な方に逃げたくても、逃げるんじゃなくて真正面から自分の人生と向き合うことが多分いま必要なんじゃないかなーと思う。

 

劣等感よ、そこをどけ、俺が通る!

いい波乗っていこう

5時過ぎに起きて、久しぶりにちゃんとした和朝食を摂る。

コーヒー飲む余裕もあったな。よしよし。

 

午前中は古巣へかえり、明日のイベントの準備を少々。3時間ほどで早めに終了。

 

そして今、帰りの電車でこれ書いてます。

 

午後の予定は17時から週一の身体のメンテナンスがあるだけ。

 

それまではフリー。

 

家着いたら昼飯作ろう。

ランチは冷凍のレトルト牛丼におしんこってところかな。実家から送られてきたやつ。

 

メンテナンスして帰ってきたら多分19時半くらいになってると思うけど、また走りに行こうかな。今日は頑張って5キロはちゃんと走り切る!!

 

先日の年初めランは体が慣れてなかったからきつかったけど今日はもう少し軽く走れるといいな。

足の疲労はまだ完全に取れてないけど、2日空いたからいけるでしょ!

 

そうだ、飯食べたあと、13時から16時くらいの3時間でやることは、

 

一、アイロンがけ

二、資格の勉強

三、英語の勉強

 

キリのいいところでコーヒーブレイクでもしてメンテへ向かおう。

 

充実した人生は、充実した1日を過ごすことの積み重ねからである!

 

今日は寒いけど天気が良くていい。

朝から今のところいい波に乗ってるよー、このままいい波のってくよー!

 

小さく幸せになる

米を炊き、カレーを家で食べる日常がどんなに幸せなことか。

 

外食をしなくとも、スパイシーなチキンカレーの香りを部屋に充満させるとともに、炊飯器の蓋を開けた時のお米の蒸気を顔に浴びることによって得られる幸福感は、さて人類の10%も感じられているのか?

 

そんなことを考えて帰路に着こうとする、3日目の夕方である。

 

まだこの時間の外は暗い。