れんこんのあなのなか

1998年生まれの男の頭のなか

言葉をもって映像化する技術

私の尊敬する、20代でありながら第一線で活躍し、いまだにさまざまなことを探究し続けている、私の指導者たる上司

 

(上司、という名詞の説明がとても長くまわりくどいのはご勘弁を。)

 

が、人の説明を聞くときの姿勢について説いた。

 

子(上司)曰く、

言葉をそのまま映像化せよ、

映像としてイメージできたらあとはその映像を自分の言葉で説明すればいい。

そうすれば記憶に残りやすく、自分が人から聞いた説明を第三者に伝えるときに伝えやすい。

 

そんなことを言っていた。

 

たしかにその通りである。

 

人の話を聞くときの姿勢に役に立ちそうだ。

 

また一方で、映像描写が上手い人になりたいなとも思うのである。

つまり、先程の話は受け手側に立ったときの心持ちの話だが、そうではなく、発信者側に立つとき、映像化できるできないで伝わりやすさが変わるという話である。

 

例えば歴史を説明するとき、史実を淡々と、教科書的な説明をしていては相手の記憶に残りにくいが、まるでそこにいたかのごとく、状況を事細かに説明すると相手の脳内で映像が再生される。

 

相手の記憶に残りやすい説明ができるというのは大変高度な技術なのかもしれない。

 

ただ、この技術を持った人が日本には一定数いる。

 

落語家である。

 

 

彼らの話は、目を瞑って聞いていると本当に目の前で映像が再生されるほど映像描写力がある。

 

 

映像をどうやって説明したら相手の脳内に映像化されるか?という研究が必要だ。

 

落語はただ面白い娯楽というだけでなく、人に物事を説明する力についての優れた資料であることを私に感じさせるのである。